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京都新聞にギャラリー恵風での個展の紹介をしていただきました

Richer7月号のアート欄にギャラリー恵風の個展の紹介をしていただきました

DMのテキストをマルテル坂本牧子さんに書いていただきました。
素晴らしい文章をいただきましたので是非ご一読ください。

空(くう)を切る、自己の存在

... 磁土をロクロで挽くことで生まれる造形の可能性を探りながら、自らの世界観を示す詩的なイメージを喚起する「空間」を創造すること-ここでいう空間とは、素材と作者からそれぞれに匂い立つ「気配」といえるものかもしれない。木野の作品には、静かに周囲の空気を震わせ、回転を続けるロクロのリズムと、静けさを破るようにして、ふと回転が止まった瞬間に現れるかたちが、その揺らぎの余韻を残したまま留められているように見える。そこに、木野はしばしば「切る」という行為を加える。緊張感のあるラインを敢えて破ることで、空(くう)を切るようにして、自己の存在を顕示しているのだろうか。私は、一見、無垢で繊細そうに見える彼の作品の内部に、じつは原初的で力強いエネルギーが潜んでいるのを感じている。そのエネルギーが今後、どのように吹き出していくのか。新世代による陶の造形の未来を、剥き出しの自己で逞しく切り拓いていってほしい。

マルテル坂本牧子(兵庫陶芸美術館学芸員)

第7回月のアート展の審査員評

SAVVY 4月号に掲載

artscape 4月1日号に掲載

会期:2012/02/20~2012/03/03

ギャラリー白[大阪府]

大阪のギャラリー白で毎年開催されている若手陶芸作家展。今回は、板野久美子、加地舞、木野智史、甲田千晴、高間智子、増田敏也の6名が参加した。秀作揃いの作品をみていると、20-30代の美術家がなぜ、表現手段として陶を選んだのかなどの疑問を抱くこと自体、無意味に思えてくる。どれほど新しいメディアが開拓されようとも、新旧各々のメディアにはそれのみが持ちうる性質があるという当たり前のことに気づかされるからだ。
 木野智史の《翠雨》はその土という素材のみが持つ質感だけがそこにあるような印象をもたらす[図1]。ラッパ型に丸められた、紙のように薄い磁器土は轆轤と焼成の技術を駆使したものには違いない。だが、木野の作品をみていると、土という素材が、たとえ機械仕上げのように滑らかな表面に仕上げられるにせよ、人間の手の痕跡をその内部に抱き続ける素材であるということを考えずにはいられない。そして、木野の手の痕跡は、抽象的な空間美へと昇華させられている。
 対照的に、増田敏也の陶の野球ボールがモニターの内部から画面を突き破って外に飛び出す作品は、その「手の痕跡」とハイテクとのあいだで宙づりになるジレンマを吐露するかのようだ[図2]。1977年生まれの増田の心象風景は、幼い頃テレビゲームで遊んだ初代スーパーマリオの粗いドットの画像であるという。彼は、虚構が虚構としての記号を有していた最後の時代の証人のごとく、重い陶の野球ボールを初代マリオと同様、粗いドットでつくる。このボールは増田自身の投影であるのか? そのボールはデジタル世界から外の物質世界へと抜け出て、ふたつの世界の境界であるモニター画面の破片とともに落下するのだ。ここに暴き出されているのは、もはや現実と虚構の境目にしか居場所がなくなった現代人の姿であるのかもしれない。[橋本啓子]

1──木野智史《翠雨》、2012
2──増田敏也《Low pixel CG 「場外」》、2012
ともに撮影=南野馨